「ああミサ聖祭!」(3)

2012年10月11日、「信仰年」が始まりました。教皇は、とくにこの1年間、第2バチカン公会議の振り返りとカテキズムの学びを呼びかけています。公会議の心は、イエス・キリストの福音の源泉に立ち返ることだと思います。そのために、まずは私たち一人ひとりが自らの信仰を新たにすることが大切でしょう。それが、キリストによって一つに結ばれた教会共同体全体の刷新に繋がる、と私は考えます。潜伏キリシタンたちが生きた信仰の学びが、私たちの信仰を日々新たにするきっかけとなれば幸いです。

 

250年間にわたる忍耐強い信仰生活と祈りはついに実を結びました。大浦天主堂でのプチジャン神父との出会いであり、「キリシタンの復活」です。このことは、再び秘跡を受け、ミサにあずかり、司祭からカテキズムを学ぶという、教会との生きた絆の復活を意味しました。浦上だけではなく、外海(そとめ)、天草、五島などに、1万人を越える潜伏キリシタンたちが存在していたと言われますが、彼らの間にこの喜びの知らせは広がっていきました。しかし、まだキリスト教は厳しく禁じられていました。そこで潜伏共同体の指導的立場にあった人たちが次々と、役人の目を盗んで密かにプチジャン神父を訪れてカテキズムや、正しい洗礼の授け方などを学び始めました。養成を受けた彼らはやがて伝道士として派遣されて行きました。

 

私にとっての驚きは、信徒発見の年、1865年の秋に、すでにプチジャン神父が神学生の養成に着手していたことです。邦人司祭養成がパリ外国宣教会の使命ではありましたが、何しろ弾圧の最中です。どんなに迫害が厳しくても司祭になりたい、と望む少年が何人かいたということは、潜伏キリシタンたちが各家庭で、親から子へ、子から孫へと信仰と祈りとカテキズム(1600年に印刷発行された「どちりな・きりしたん」という教理書があった)の学びが伝えられていたことの証しです。潜伏しながらも、今の言葉で言えば「祭司職(祈る)・預言職(伝える)・王職(愛の証し)」の使命を果たしていたのです。宣教師は数人の若者を選び、それこそ屋根裏の隠し部屋でラテン語を教えることから養成を始めました。新たな迫害が始まると日本から脱出し、アジアの他の国で神学の勉強を継続するなど、さまざまな苦難、艱難を経て、17年後には3人の邦人司祭が誕生しました。もっとも小さな教会である家庭に働く、奇跡とも言える神の計らいであり、み業です。

 

宣教師たちは浦上の4箇所に秘密教会を作りました。夜になると、信徒たちは密かに集い、宣教師は日本人に変装し、ちょんまげのかつらを付け、草鞋(わらじ)ばきでミサの祭具を背負ってその教会を訪れ、真夜中にミサを捧げ、ゆるしの秘跡を授け、夜明け前に帰った、と言います。250年ぶりに、身をひそめながらも秘跡を受け、ミサにあずかった彼らの喜びはどれほどのものだったでしょうか。主日ごとに、当たり前のようにミサにあずかっている今の私たちは、ミサの喜び、有難さをどれほど味わっているでしょうか。

 

場所は変わりますが、五島も同じような状況にありました。1867年2月、五島の潜伏キリシタンたちの念願がかなって鯛ノ浦の信徒の家の隠れ場で、クゼン神父によって、250年来初のミサが捧げられました。クゼン神父は日記に印象的な言葉を記しています、「押入れの中に祭壇をこさえた。狭いは狭いが、充分隠れている。…ああミサ聖祭!信者たちはこのミサ聖祭をいかに待ちわびていたのであろうか。パーデレさまがおいでくださった、と喜びの情にたえない様子だった」と。