「サンタ・マリアのごぞうは どこ?」(2)

 

前回は、250年間、司祭不在で信仰を守り、伝え、バスチャンの預言を信じ、黒船に乗ってやってくるパーデレ(神父)を待ち続けた潜伏キリシタンについて書きました。そして、1859年に、パーデレたちは大きな黒船に乗ってやって来ました。キリシタンたちの夢は実現しましたが、それは横浜の地でした。

 

1862年、横浜に天主堂を建てた宣教師たちは、キリシタンの子孫が存在しているかもしれない、という淡い希望を持っていたかもしれませんが、横浜村はキリスト教と無縁の地でした。何しろ、ほんの10年ほど前まで横浜村は寂しい寒村でした。横浜市歌にも「むかし思えばとま屋のけむり ちらりほらりと 立てりしところ」とあります。「粗末な小屋から 炊事の煙が ちらほらと立つところ」という意味でしょうか。キリシタンの子孫たちとの出会いの場はやはり長崎でした。

 

横浜を本部として宣教師は長崎に行きました。そして、1862年に列聖された日本26聖人の殉教地を展望できる山の中腹に、横浜天主堂より3年後の1865年、フランス人居留者のために大浦天主堂を建て、その教会堂を日本26聖人に捧げました。この教会堂は俗にフランス寺と呼ばれ、横浜と同様、西洋式の天主堂は人々の好奇心のまととなり、厳しい監視の中、多くの参観者が見物に訪れたと記録されています。

1865年3月17日、この日は日本のカトリック教会にとって記念すべき日となりました。 

 

7世代にわたって地下に潜伏しながら信仰を守り、伝えてきた浦上村の農民たちの間に、「フランス寺にはサンタ・マリアがおいでになる。サンタ・マリアがおられるなら、そこにおられる異人さんは、パーデレさまに相違ない」という噂がひそかに広まっていきました。そこでこの日、浦上村の男女10数名の潜伏キリシタンが、勇気をもってこの寺を訪れました。プチジャン神父が開けてくれた扉を通って彼らは中に入りました。参観者を装った彼らは、見物しながら聖堂内を歩きまわりました。そのとき、3人の婦人が祈っているプチジャン神父に近づき、神父の耳にそっとささやきました。

 

「われらのむね あなたさまのむねとおなじ。サンタ・マリアの ごぞうは どこ?」

 

長崎には、キリシタンの子孫がいるに違いないと考え、手を尽くして探していたプチジャン神父は、この信じられないような言葉に心を躍らせながら、彼らをマリア像の前に案内しました。潜伏キリシタンたちは興奮して、「ほんとうにサンタ・マリアさまだよ。ごらんよ、御腕に御子ゼススさまを抱いておいでだよ」と口々に言いました。この後に続く神父と潜伏キリシタンとの信仰を巡るやり取りから、神父は彼らがキリシタンの子孫であることを確信しました。出会ったその時期はちょうど四旬節でした。キリシタンたちが古いバスチャンの暦に従って「悲しみの節」を守っているのも驚きでした。プチジャン神父は、この奇跡的な出来事を横浜にいる管区長のジラール師に、神の御業にたいする深い感謝と感動を込めて書き送りました。

 

これが「キリシタンの復活」と呼ばれる出来事です。長い間待ち焦がれていたパーデレが来たという知らせは、素早く潜伏キリシタンの間に広まっていきます。これを契機として、多くの潜伏キリシタンたちは、次々とプチジャン神父と密かに連絡をとり、神父の指導下に入っていきます。神父は密かに、確認の洗礼を授け、指導者たちを再教育し、日本人伝道士を養成して、各地に派遣しました。キリスト教がまだ厳しく禁じられていた時代にです。これが、やがて大きなキリシタン弾圧に繋がっていきます。