「沖に見えるはパーパの舟よ」(1)

 

 横浜天主堂献堂150周年の記念行事を迎えるにあたって、そこに至る潜伏キリシタン時代を思い起こし、簡潔に書いてみたいと考えました。彼らが生きた信仰から、学ぶことが多いと考えるからです。

 

徳川幕府によるキリシタン禁制の厳しい弾圧の中にあって、地下に潜伏したキリシタンたちは250年の間、信仰を守り通しました。1644年、最後の日本人司祭 マンショ小西神父の殉教をもって、日本に司祭は一人もいなくなりましたが、信仰の灯は消えませんでした。共同体の集い、教理の学び、祈りを大切にし、ローマ教皇との心の繋がりを失うことなく、「沖に見えるはパーパの船よ 丸にやの字(マリアを表す)の帆がみえる」と歌いながら、「七代たてばコンヘソーロ(ゆるしを授ける司祭)が大きな黒船に乗って来る」という伝道士バスチャンの預言を信じて待ち続けました。

 

キリスト教が自由の時代、宣教師たちは、いくつかの信心会を組織しました。たとえば、「ミゼリコルディア(慈悲)の組」は、今で言えば、愛を証しする活動を行い、多くの貧しい人たち、孤児、病人たちを助け、見捨てられた死者を葬りました。「聖体の組」、「ロザリオの組」などは司祭を中心に集い、お互いの学び合いのうちに信仰を深めました。どの集いも、ゆるしの秘跡、ミサ、オラショ(祈り)を大切にしながら、洗礼によって与るキリストの祭司職の使命をよく果たしていました。

 

迫害が予想される時代が来ると宣教師たちは、特に長崎地方で、組(共同体)のリーダーたちを熱心に養成し、信者たちに生き残る道を教えました。宣教師は、司祭不在でゆるしの秘跡を受けられなくても、いつか司祭に出会えたときに告白する、という心をもって唱えれば赦される、「こんちりさん(完全な通悔の祈り)」を教えました。この祈りはキリシタンたちに大きな力と慰めとなりました。

 厳しい弾圧が始まります。正月の定例行事の絵踏み、キリスト教禁制のために設けられた宗門改め制度、檀家として寺に戸籍を届け、葬儀には僧侶を呼ばなければならない寺請制度、互いに密告する五人組制度など。心ならずも、表面的には仏教徒を装い、おかした罪を悔いて「こんちりさん」を唱えながら、キリシタンたちは信仰を守り、伝えていきました。

 

彼らは、自由の時代の信心会にならって秘密の組織を作り、役割を決めました。組織の最高責任者は洗礼を授ける役、バスチャンが作った教会の暦を伝承し、教会の祝日を決める役、洗礼を授ける人の助手役で、洗礼の時、言葉を間違えないように聞く役でした。このような固い組織のもとに、厳しい監視の目を逃れて彼らは週に一回集い、共に祈り、共に教理を学び、子どもたちに信仰を伝え、子どもが生まれれば洗礼を授けていました。今の言葉で言えば、毎週、集会祭儀を行っていたのです。その共同体の祭儀の中に、読まれるみことばの中にキリストはいつも共におられました。

 

 ある意味で、迫害があったからこそ、彼らの信仰は強められた、と言えるでしょう。こんな闇の世界に、光が射しました。それが1859年、「大きな黒船に乗って来た」パリ外国宣教会のジラール師の横浜上陸であり、1862年の横浜天主堂の献堂、1865年の大浦天主堂での潜伏キリシタンの発見に繋がっていきます。

 潜伏キリシタンたちは、神のみ摂理により、どんな迫害にも屈せず、希望をもって、洗礼に伴う祭司職(共に祈ること)、預言職(みことばを伝えること)、王職(愛の証しをすること)の使命を果していました。横浜天主堂の献堂を祝うとともに、彼らの固い信仰の生き方をも学びたいと思います。