感謝の祭儀(13)

 

《平和の挨拶》 「主の祈り」に続いて教会は、主キリストに向って世界中のすべての人々のために平和と一致を願い求めます(総則82参照)。したがって祈りの中に「平和」が繰り返されます。まず司祭は、最後の晩さんの席で弟子たちに言われた主キリストのみことばを思い起こして唱えます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」(ヨハネ14:27)。そして、「おことばの通り教会に平和と一致をお与えください」と祈り、会衆はその祈りに賛同し、「アーメン」と応えます。コムニオの準備として共同体に平和が訪れ、共同体が一つに結ばれることを願う大切な祈りです。

 「平和」をからだの動きで表すために「平和の挨拶」が行われます。司祭は「主の平和が皆さんとともに」と呼びかけ、会衆は、「また司祭とともに」と応えます。さらに司祭は、「互いに平和の挨拶を交わしましょう」と呼びかけ、一同「主の平和」という言葉をもって挨拶を交わします。

「平和の挨拶」の仕方は、それぞれの国の文化、国民性や習慣によって異なります。握手する場合もあれば、ハグなどをすることもあるでしょう。日本では一応、「手を合わせて『主の平和』と唱え相互に礼をする」(総則:日本における適応)ことになっています。この挨拶で大切なことは「主の平和」は単なる礼儀や友人同士の挨拶ではなく、そこにはもっと深い意味が含まれていることを心に留めておくことです。このことばを聞くとき、復活されたイエスが弟子たちに現れた場面を思い起こします。聖書のみことばを聴きましょう。

 

 その日(復活された日)、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中の立ち、「あなたがに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19~21)。

 

 イエスが十字架に架けられたとき、弟子たちはイエスを裏切り、逃げ去りました。自分たちを愛してくださったイエスを裏切った大きな罪意識に弟子たちはどんなに苦しんでいたことでしょう。良心の呵責に耐えられない思いだったと思います。ユダヤ人たちが自分たちを襲うのではないかと恐れ、家じゅうの鍵をかけ、閉じこもっていました。そこに復活されたイエスが現れ、彼らの真ん中に立ちました。イエスは弟子たちを一言も責めることなく、「平和があるように」と言われました。ヘブライ語で言えば「シャローム」の一言です。罪の意識にさいなまれていた弟子たちは、このイエスの一言を聴いて喜び、安心しました。なぜなら、主の言われた「平和」というみことばの内に、キリストのゆるし、極みまでの愛といつくしみの心を悟ったからです。

 「主の平和」の挨拶を、イエスと同じように、共同体相互のゆるし、愛といつくしみの心をもって交わしましょう。この心は、共同体を一つに結び、「永遠のいのちの糧」であるキリストの御からだに向かう準備となります。