第2バチカン公会議後(11)

 

ヨハネ23世の遺志を受け継いだパウロ6世教皇は、毎年、秋のおよそ10週間にわたって公会議を開き、1965年12月3日、第4会期をもって公会議を閉じました。前代未聞の公会議で、世界中の異なる文化・国籍・言語、保守派・進歩派と多様な考えをもった司教たちの会議ですから、教皇は私たちの想像を絶するご苦労をされたと思います。しかし、人間的な力と努力を超えた聖霊の導きにより、司教たち相互の理解が深まり、次第に他者の立場や考えを受け入れるようになっていきました。なによりも、4年間の流れの中で、大多数の司教たちが教会刷新の必要性を感じたことは大きな収穫だったと思います。

 

第2バチカン公会議はカトリック教会に新しい息吹を吹き込みました。そして、この公会議の終了は教会の新しいスタートでもありました。公会議の公文書を基に、その適応について新しい指針が次々と出されました。

ここで考えなければならないのは、公会議が終わって50余年が経ちましたが、芽吹いた新しい芽はどれほど成長したでしょうか。私たちは、どれほど第2バチカン公会議の精神を理解し、実践に移しているでしょうか。フランシスコ教皇は、まだまだだ、と言っておられます。教会の現在と未来のために、新しい翻訳と分冊が出版された今、私たちは、公会議で発布された、とくに四つの憲章を、じっくりと学ぶ必要があると私は考えます。磯子教会の中にも、憲章を一緒に学ぶグル―プがきることを願いながら、四つの憲章の、私自身が変わったなあ、と強く感じ、体験したした点をいくつか書いてみようと思います。

 

【典礼憲章】

時が満ちて、刷新された公会議の新しい風を真っ先に肌で感じたのはミサの刷新でした。とくに心に響いたことに触れてみましょう。

① 公会議以前のラテン語のミサの場合、信徒たちは受動的な傍観者でした。ミサは司祭がささげ、信徒は与っていればよい、と考えていました。1968年に典礼憲章が日本語に訳されました。分かりづらい日本語でした。それは翻訳の問題だけではなく、その内容が、今まで教えられたことと大きな違いがあったからでしょう。そして私は仲間たちと共に、一生懸命に読み、話し合い、理解に努めました。

1970年でしたか、「ミサにおいても、秘跡の授与においても、国語を使用することができる」(36参照)という典礼憲章の原則を受けて、日本の司教協議会は、日本語によるミサ式次第を作成しました。

初めて日本語によるミサがささげられた時は本当に感激しました。ささげられるミサの言葉の一言一言が理解できたのです。新しいミサに関わる本を熱心に勉強し、ミサの深い意味、その喜びとすばらしさを理解するように努力しました。そして、その努力を今も続けています。

 

② 信徒は、ミサの傍観者ではないことを知りました。公会議以前、会衆に背を向けてミサをささげていた司祭は今、会衆に向い、会衆と共にミサをささげます。ミサの中で何回も「わたしたち」という言葉が使われます。それは、ミサに集うすべての信者を意味しています。典礼憲章は述べています。「母なる教会は、すべての信者が、十全に、意識的かつ行動的に典礼祭儀に参加するように導かれることを切に望んでいる」(14)。信徒も洗礼によってキリストの共通の祭司職に与っており、典礼における参加者となります。

 

行動的参加とは、朗読者、先唱者、聖歌隊、臨時の聖体奉仕者だけではなく、「会衆の応唱、答唱、詩編唱和、交唱、聖歌、さらに種々の行為すなわち動作と姿勢にも配慮しなければならない。また、しかるべきときには、聖なる沈黙を守らなければならない」(30)のです。