第2バチカン公会議(10)

1963年6月3日に神に召されたヨハネ23世は、神の国から、祈りをもって、第2バチカン公会議を支え、見守る立場になりました。しかしヨハネ23世は、教皇に選出されたときから、自分の後継者にふさわしい人物を心に決めて、手を打っていたように私には思えます。

 

ヨハネ23世逝去後ただちに招集されたコンクラーベ(教皇選挙)で、ミラノの大司教モンティーニ枢機卿がいち早く教皇に選出され、パウロ6世を名乗りました。ヨハネ23世が11回目の投票でようやく教皇に選出されたことに比べれば、今回は枢機卿団にあまり迷いがなかったようです。

実はモンティーニ大司教は、第2次世界大戦の困難な時代に、教皇庁国務省で働いた経験もある有能な人物としてよく知られており、ヨハネ23世の前任教皇ピオ12世の後継者として期待もされていました。しかし、コンクラーベの時、モンティーニ大司教はまだ枢機卿に任命されていませんでした。そこでやむを得ず「つなぎの教皇」と呼ばれたヨハネ23世が選ばれたというわけです。教皇として着座して間もなくヨハネ23世は、23人の枢機卿を任命し、その中にモンティーニ大司教も含まれていました。モンティーニ枢機卿は第2バチカン公会議の準備と本会議に積極的に参加していました。まさに神の計らいは絶妙だと感じます。

 

ヨハネ23世の逝去によって公会議は中断されるのではないか、という心配が一部にはあったようです。しかし、教皇に就任したパウロ6世は、就任の最初のメッセージで、「教皇としての職務にもっとも重要な事柄は、全世界の善意ある人びとが注目している第2バチカン公会議を継続することです」と言って、ヨハネ23世の遺志を継ぐ決意を述べ、世界を安心させました。そして、多くの困難を乗り越え、実り豊かな第2バチカン公会議を閉会まで導きました。

 

話は飛びますが、皆さんもご記憶のことでしょう、今年(2014年)の10月19日、家庭についての臨時シノドス(世界代表司教会議)の閉会ミサに先立って教皇フランシスコは、パウロ6世の列福式を行いました。説教の中で教皇フランシスコはパウロ6世を「第2バチカン公会議の偉大なかじ取り役であった」と称賛しました。そういえば、シノドスを創設したのも、1月1日を「世界平和の日」として制定したのもパウロ6世でした。

 

パウロ6世が第1会期の半ばで公会議を受け継いだ時、問題は山積みでした。「第2バチカン公会議(8)」に書いたように、第1会期で提起された典礼問題、啓示の源泉や教会に関わる問題などは、決着がつかず、宿題として残されていました。保守派と刷新派の激しい意見の対立や相違の中にあって、パウロ6世の苦労はどんなに大きかったことでしょう。しかし彼は、教会の伝統とヨハネ23世の遺志を大切にしながら、教父たちの一致を保つために力を尽し、1965年12月の第4会期終了までに、四つの大切な「憲章」、九つの「教令」、三つの「宣言」を公布しました。どこに書かれていたか忘れましたが、ある記事によると、第2バチカン公会議が始まった時、多くの司教たちは保守的であったが、公会議が終わる頃、多くの司教たちは刷新派になっていた、といいます。公会議をとおして、聖霊の導き、教皇パウロ6世の指導、司教たち相互の切磋琢磨によって、司教がたは、大いに成長されたのだと思います。

これまで第2バチカン公会議の背景を簡単に書きましたが、次回は、公布された「憲章」を手短かに紹介したいと思います。