第2バチカン公会議(7)

 

 固定化された伝統的なミサを中心とした典礼を刷新しようというのですから、総会の議論が静かになされるわけがありません。伝統主義者と刷新派との間に激しい議論がなされました。無理もありません。公会議史上最大の参加者数であり、参加した国も最多だったからです。教父たちも、従来のようにヨーロッパ中心ではなく、アジア、アフリカ、アメリカと世界中から集まっていました。豊かな国と貧しい国、先進国と発展途上国、キリスト教文化圏の国と他の宗教文化圏の国など、多様な世界から教父たちが集まってきたのです。大多数の教父たちは、この公会議において初めて顔を合わせ、知り合ったことでしょう。この出会いを通して、どの議題についても多様な意見があることも理解したのではないでしょうか。

 

典礼に関わる意見や思いも多様でした。伝統を重んじ、ミサを変えてはならないと主張する人々、刷新を強く願う人々が皆、自由に討論し、論争しました。総会の模様は公開されていましたが、日本では公会議の情報は得られませんでした。幸い、アメリカのタイム誌はその宗教欄で、誰がどのような発言をしたかを詳細に伝えていました。私はその記事を読んで最初は本当にビックリした経験があります。それまで、カトリック教会の考えとか教えは世界中が統一されていると教えられていたのに、まるで喧嘩のような騒ぎだったからです。しかし、この公会議を通して私は、多様性における統一と、激しい議論の中に働く聖霊の導きを感じました。意見の対立、激しい議論は大きな恵みでした。この激論の中で教父たちは成長していったと思います。

ちょっと付け加えると、この公会議は私に、第1回の公会議とも言える「エルサレムの使徒会議」(使徒言行録15章参照)を思い起こさせます。

 

結局、典礼に関わる議案は第1会期で成立せず、新しい議案を作成するための調整委員会に委託されました。この委員会は、1年をかけて全世界を考慮に入れた司牧的視点から、公会議でなされた議論を詳細に検討し、翌1963年9月29日から12月4日に開かれた第2会期において改めて新しい議案を提起しました。そしてなんと、投票の結果この議案は、賛成2,147票、反対4票、棄権1という圧倒的多数の賛同を得て成立したのです。まさに総会における論争、激論は生みの苦しみでした。ここに教会共同体にとっての新しいいのち「典礼憲章」が生まれたのです。ただ残念なことに、あれほど典礼の刷新を望んでおられたヨハネ23世は1963年6月3日に胃がんのために神に召されました。「典礼憲章」は、後継者のパウロ6世教皇のもとで実を結びました。

 

ところで、対話と自由を大事にされたヨハネ23世の人柄をよく表すエピソードを一つ紹介しましょう。ヨハネ23世は、特別な時以外は公会議の総会に参加することはありませんでした。教皇の書斎にはモニターテレビが用意されていて、討論の様子を見ておられたそうです。教皇がおられないので、教父たちは自由に討論ができたとも言われています。「バチカンこぼれ話」という小さな本の中でホアン・マシア師はこう書いています。「ある日のこと、公会議では激しい口論がなされていた。ヨハネ23世はそれをニコニコしながら見ていた。傍にいた長官たちは困ったような顔をしていた。教皇はあくまで温顔をくずさず次のように言った。『大丈夫、大丈夫、議論はあったほうがいい。司教団は合唱団ではないんだから、無理にぴったり声を合わせる必要はないんだよ』」。