第2バチカン公会議(6)

 

教皇庁の準備委員会推薦による委員候補者リストが、公会議開始早々の第1回総会において拒否され、改めて第2回総会において、リベラルな考えを持つ多くの教父を含む委員が選出され、ヨハネ23世もそれを認めたことは、教会の刷新をつよく望む教父たちに自信を抱かせました。それまで、教皇庁スタッフが決めたことをそのまま受け入れるのが伝統だったからです。教父たちは、公会議における発言の自由、司教団の自主的意見が尊重されることを確信し、その確信が公会議を大きく発展させたと思います。

公会議全体について書くことは私の力を超えています。私自身がいちばん関心を持っている典礼憲章を初め4つの憲章を中心に、公会議の流れを簡潔に見ていきたいと思います。

公会議の最初の議題は、「聖なる典礼に関する議案」でした。この草案は比較的進歩的だと言われていましたが、実際には伝統からそれほど自由になってはいなかったようです。激しい討論の段階で、教皇庁の準備委員会が提起した草案は予想以上の抵抗にあいました。なぜ抵抗があったのでしょうか。ここで、私自身が体験していた公会議以前のミサについて簡単に触れてみましょう。

 

典礼の中心はミサです。第2バチカン公会議以前のミサは、16世紀のトリエント公会議によって公布された「ローマ・ミサ典礼書」に忠実に従わなければなりませんでした。ミサは言うまでもなくラテン語で、司祭の動きも典礼法記によって厳しく規定されていました。内陣の司祭は会衆に背を向け、小さな声で聖書や祈りを唱えていました。ミサは司祭のもので、私たち信徒は傍観者でした。黙って祭壇を見ているわけにもいかないので、ロザリオを唱えたり、「公教会祈祷文」で典礼とは関わりのない祈りを唱えていました。聖書朗読ももちろんラテン語ですから、福音のメッセージはぜんぜん伝わりません。私たちキリスト者の信仰の核心であるミサの大切な、深い意味を教えられたことはありません。ミサを捧げる喜びという考えはありませんでした。強調されたのは、ミサにあずかる義務でした。ミサをさぼれば大きな罪だ、と。

聖体をいただく信徒がとても少なかったことを記憶しています。20世紀の初めに教皇ピオ10世は、聖体をひんぱんに受けるように勧めたのですが、そのメッセージは日本に届いていなかったのでしょうか。聖体はいただくよりも、見て、礼拝することが大事にされていました。ミサが終わると続いて聖体降福式(ベネディクション)が行われていました。典礼よりも信心が大事にされていたように思います。

 

このような固定化された形式的なミサ、信徒には理解できないミサは400年間続きました。やがて、19世紀後半からヨーロッパのベネディクト会修道院を中心に少しずつ典礼への関心が深まっていきました。最初は司祭、修道者中心の運動でしたが、優れた学者たちの典礼の歴史や聖書学の研究の進歩に伴って、次第に信徒の間にも典礼への関心が深まっていき、典礼研修会も行われるようになったようです。このような動きを通して、ミサを刷新したい、ミサをすべての信者のものとしたい、という思いが高まっていきました。このような典礼運動が、第2バチカン公会議における典礼刷新の土台となっていたのです。そこで比較的進歩的な草案と言われていましたが、実際には草案を起草したのは典礼運動に関わっていない人々でした。

提起された草案に抵抗があったと言いましたが、抵抗したのは、このような典礼運動を体験した西ドイツ(当時)、ベルギー、フランス、オランダの司教たちでした。