第2バチカン公会議(4)

 

2014年4月27日「神のいつくしみの主日」。この日は、私たちの記憶に残る日となるでしょう。福者教皇ヨハネ23世と福者教皇ヨハネ・パウロ2世が列聖される日だからです。私たちと同じ時代に生き、活躍された偉大な二人の教皇が、こんなに早く列聖されることに驚きと喜びを感じています。

ヨハネ23世は、聖霊の導きのもとに、第2バチカン公会議を招集し、硬直化した教会の刷新、教会の一致、現代世界に開かれた教会など、教会に新しい空気を吹き込まれました。

ヨハネ・パウロ2世は「空飛ぶ教皇」と呼ばれるほど巡礼者として世界各地を訪れ、イエスの教えとこころを伝えました。私たち日本人として忘れえない出来事は、1981年2月に教皇が来日されたことです。2月24日には後楽園球場において日本語でミサを捧げられ、翌25日には広島で平和のアピールをされたことを覚えておられる方も多いでしょう。その他、私としてとくに印象に残っていることは、ポーランド出身の教皇の影響によって社会主義国家ポーランドが民主化されたこと、2000年の大聖年に、歴史の流れの中でキリスト者がおかした種々の過ち、例えば、十字軍の行動、ガリレオ・ガリレイの裁判、宗教裁判などについて、世界に向って教皇が公式に謝罪し、赦しを乞うたことです。

 

話を元に戻します。公会議の準備は、前回にも書いたように、実に波瀾に富んだものでした。400年間硬直化した教会の壁に穴を開けるのですから大騒ぎになったのも無理はありません。しかし、保守的な動きの中でヨハネ23世は、必要な部署に、責任者として進歩的な枢機卿を配置するという配慮をされました。教皇庁スタッフ以外にも、各専門分野の神学者たちを顧問として招いていました。その中には、進歩的神学思想のためにかつて教会から遠ざけられていた神学者たちが含まれており、その人たちが活躍しました。

準備に4、5年はかかるという噂の中で教皇は、1961年のクリスマスに、公会議は1962年に開くと宣言し、準備は加速されました。公会議開会をひかえた1962年9月の日記に教皇のホッとした気持ちが表れています。「3年の準備は骨はおれたが、順調に平静に運んで、いまや私は聖なる山のふもとにたたずんでいる。主よ、有終の美をなすよう、われを助けたまえ」と。

 

開会式直前の10月4日、この日はアシジの聖フランシスコの記念日ですが、ヨハネ23世はアシジを訪れています。しかもこの時、教皇はかなり体調が悪く、痛みをも訴えていたようです。実は、10月の終りには、胃がんと診断され、その結果ははっきりと教皇に伝えられています。もちろん、公表はされませんでしたが。そんな苦しみにも関わらずあえてアシジを訪れたことに、教皇の、貧しさと平和の使徒である聖フランシスコにたいする深い尊敬と親しみの気持を感じます。きっと聖フランシスコの墓前で、公会議への導きを祈ったことでしょう。

 

1962年10月11日、公会議の教父たちおよそ2,500人が参集し、サンピエトロ大聖堂において荘厳ミサと開会式が行われました。日本からも土井辰雄枢機卿を初め、14人の大司教、司教が参加しました。横浜教区長の荒井勝三郎司教もその中におられました。