福者ヨハネ23世教皇(2)

 

過渡期の教皇と呼ばれ、あまり期待されていなかったヨハネ23世は、就任後間もなく、温かい慈父のような親しみ深い教皇として人々の心をとらえました。自然素朴で、ユーモアに満ち、優しい笑顔の教皇は、真に「パパさま」と呼ばれるのにふさわしい人柄でした。この資質は、彼が生まれ育ったイタリアのベルガモ県の郊外ソット・イル・モンテ(「山のふもと」の意味)という小さな村の生活環境が育んだのかもしれません。

父親のジョバンニ・バッティスタ(洗礼者ヨハネ)・ロンカリは貧しい小作農でした。1881年11月に長男として生まれたヨハネ23世は、その日のうちに村の「洗礼者ヨハネ教会」で洗礼を受け、アンジェロ・ジョゼッペと名付けられました。アンジェロには2人の姉がいましたが、次第に弟妹が増え、全部で13人きょうだいとなりました。貧しいけれども温かい敬虔(けいけん)な家庭でした。アンジェロは少し大きくなるとミサの侍者を務め、洗礼式には喜んで奉仕し、平日にもよくミサに与っていたそうです。言うまでもなく、農家の息子として両親の畑仕事を手伝っていたことでしょう。ヨーロッパの農村がそうであったように、この小さな村も、司祭を中心に、一つの家族のように互いに助け合う共同体であったと思います。

アンジェロの幼年時代、家はかなり貧しく、食事も粗末だったと、前回紹介しましたトレバーの伝記(「教皇ヨハネ二十三世」)は述べています。その貧しさについてヨハネ23世自身こう言っていたそうです。「テーブルの上にパンがあったためしがない。あるのはとうもろこしの(かゆ)だけだった。子どもや年若い者にはぶどう酒は与えられず、肉もめったになかった。ただクリスマスと復活祭にだけ、自家製の菓子が一切れずつ分配された。(中略)台所を訪れる物乞いのためには、いつでも席があけられた。母はその見知らぬ人を、いそいそと私たちの横に坐らせたものだ。」

 乏しい食べ物を貧しい人と分かち合い、隣人としてもてなした母親の親切心、温かさ。この母親の背中を見て育ったヨハネ23世は、人々にたいする心の広さ、優しさを自然に身につけていったのではないでしょうか。

父親はアンジェロを、小学校教育が終わったら当然のことながら農民として働かせるつもりでした。中学校へ送ることができるほど経済的余裕がなかったからです。しかし、周囲の人は彼の中に優れた資質を見出し、司祭、親戚、その他の人々の支援を受けてアンジェロは神学校に進むことができ、司祭への道を歩み始めました。

ヨハネ23世は生涯、自分の家族や故郷への思いを大事にしていました。教皇に選ばれる前でしょうが、自分が死んだら、故郷の村の教会に埋葬して欲しい、と言っていたそうです。父親への敬愛の念も強いものでした。

話が飛んで恐縮ですが、教皇に選ばれたとき、担当の枢機卿から恒例により、「何という教皇名で呼ばれることを望まれるか?」と問われ、「ヨハネと呼ばれたい」と答えました。

ヨハネ23世の心の中には二人の「ヨハネ」が重なっていたようです。一人は「洗礼者ヨハネ」。この名は、愛する父親の名であり、また、彼が洗礼を受けた小さな村の教会の名であって、そのこと記念したかった。さらに洗礼者ヨハネは、先駆者として主キリストの道を準備し、「神の小羊」であるキリストを示し、光の証人として、最後には自分の血をもって真理を証しした人です。教皇として、このヨハネの道を歩みたいという決意の表れだと思います。

もう一人の「ヨハネ」は、使徒であり、福音記者であるヨハネです。ヨハネのように心から主キリストを愛する使徒として教皇職を引き受け、世界中の、すべての人に福音を宣べ伝えたいという思いの表れだったでしょう。