「ミッション会宣教師とルルドの聖母」(9)

 

 キリシタン時代から日本では聖母マリアに対する信心が盛んで、この熱心な信心は、潜伏キリシタンに受け継がれました。彼らは「沖に見えるはパーパの船よ 丸にやの字(マリア)の帆が見える」と歌いながら、厳しい迫害と弾圧に耐え、聖母のご保護と取り次ぎを祈り、未来に希望をもって親から子へ、子から孫へと信仰を伝えていきました。彼らにとって聖母マリアの存在は、どんなに大きな力であり慰めであったことでしょう。

 

1858年に日米修好条約が締結され、1859年には横浜の港が開かれ、待望の宣教師がフランスから日本に来られました。この時代に私は神の計らいを感じます。ルルドで聖母マリアが、貧しいが純真な少女ベルナデッタに最初に出現されたのは、まさに1858年2月11日のことでした。聖母マリアのルルドでの出現とミッション会宣教師の来日は、時代的に重なっています。ルルドでの出来事で、フランスのカトリック教会には新たな息吹が吹きこまれたことでしょう。このルルドの聖母への崇敬と信心を宣教師は日本にもたらしたのです。宣教師をとおして、ルルドの聖母マリアに対する信心が急速に日本に広まっていったと思います。その一つのしるしが、ミッション会宣教師が建てた各地の教会に、ルルドの洞窟の模型が造られたことです。

 

2003年4月、磯子教会巡礼団は五島の井持浦教会を訪れました。ここのルルド洞窟は、1899年に日本で最初に造られたもので、司祭の指導のもとに、信者たちが自分たちで石を運んで造ったと聞きました。

 

皆さんは、東京カテドラルの関口教会を訪れたことがありますか。教会の境内に、ルルドの実物大の立派なルルド洞窟があります。これは1911年(明治44年)に、アンリ・ドマンジェル師によって造られたと説明版に書かれています。ルルドの聖母への熱心な崇敬心が、洞窟という形で表わされたのです。

 

今回は、あまり知られていないこのドマンジェル師を簡潔に紹介しましょう。彼は、宣教だけではなく、人々が恐れ、避けていた結核療養所に定期的に病人を見舞い、力づけていました。この活動が後にフロジャック師へと引き継がれ、大きな事業へと発展していきました。

彼は他に、教会の敷地内にある玫瑰塾(まいかい塾⇒ロザリオの意味か?)という全寮制の塾のためにも力を尽くしていました。その原点は孤児院であったようです。ここでは、塾生が自立できるように、木工部、製靴部、製パン部などの実技的な職業訓練を行っていました。この中で、フランスの資金援助で始めた製パン部のフランスパンはとくに有名で、「関口フランスパン」として現在にも続いています。両親はよく、このパンがとても美味しかったと話していました。日本におけるフランスパンは、関口教会から始まった、と言えるようです。

実は私の父はその塾生でした。この塾で学んだかどうか知りませんが、製図の仕事をしていました。

私事で真に恐縮ですが、私の名前はこの宣教師の名に由来します。当時外国人宣教師はよく名前を漢字で表しました。フロジャック師は漢字で「不老若」と書いていたそうです。アンリ・ドマンジェルは「安満是留」と表記し、父は恩人の名から「利」と「道」をとって息子に残したわけです。私はその名を誇りに思っています。

 

ドマンジェル師のもう一つの功績は、現在の聖歌集の先駆けともなる「公教聖歌」を1911年に塾から編集出版したことです。現在と違って、ラテン語聖歌が主で、フランス語聖歌、聖母賛歌が多かったようです。ルルドの聖母を参拝する聖歌も含まれていたと聞きました。塾生は全員男性だったので、グレゴリアン聖歌を歌わせていたとのことで、そう言えば父も、若葉町教会の聖歌隊でよく歌っていたことを記憶しています。

 

横浜天主堂150周年記念行事が、単にイベントに終わらないように、当時の宣教師の活躍を思い起こし、キリストの命を生きる彼らの献身的な、逞しい宣教魂から学びたいと考え、書き始めました。ほんの一端にしか触れることができませんでしたが、これを機に、皆さまが当時の宣教師に関心をもっていただければ幸いです。

この記事を読んで、昔を知る信者の方から反響があったことを嬉しく感じています。有難うございました。(完)