「愛を証しした宣教師」(8)

 

テストヴィド神父と同じように、病に苦しむ人々、社会的に弱い人々のために献身的に働き、信仰を愛で証したミッション会の宣教師にヨゼフ・フロジャック神父がおられます。私の両親がたいへんお世話になり、私自身も学生時代にお会いしたことがある方です。優しさ、温かさがにじみ出ている表情と茶目っけたっぷりな目が印象的でした。神父の活動範囲は多岐にわたっていたので、活動のほんの一端に触れて紹介しましょう。

日本に来られたのは1909年12月で23歳という若さでした。司祭に叙階された翌日に日本派遣が発表され、およそ2か月後に乗船し、一カ月余りで日本に着きました。宣教師たちは皆、キリストの福音を宣べ伝えるために、家族と別れ、二度と祖国に帰らず、任地に骨を埋める覚悟で国を出ていました。

来日した神父は、宇都宮教会に派遣され、「歩く宣教師」として知られているカジャック神父のもとで、日本語や日本の文化・歴史・社会事情などを学びました。その後、主として北関東各地を村から村へと「歩く宣教師」として福音伝道に献身しました。歩いているとき負った足の傷を、自分で針と糸で縫った、という何とも勇ましい話を聞いたことがあります。後に東京に戻り、1918年には関口教会の主任司祭に任命されました。関口教会の敷地内に住む、当時17歳の私の母はここでフロジャック師に出会ったのです。

1927年に、神父は一人の結核患者を中野の結核療養所に見舞います。これを契機に、その後長く、定期的にこの病院への訪問を始め、多くの患者を見舞いました。当時、結核は感染力が強く、不治の病として人々から恐れられ、だれも患者たちには近寄らず、家族からさえ疎外されていました。しかし、神父は全て患者を一人ひとり、心をこめて見舞い、話を聞き、優しい言葉で励ましたといいます。そんなある日、神父は療養所から退所命令を受け、帰る家がなく困惑する患者に出会います。そこで、一軒の家を借りて、行く場のない数名の患者を収容しました。これが、フロジャック師が社会福祉事業に関わる契機となったようです。

1930年には、男子患者のために「ベタニアの家」を作りました。神父の頭には、イエスが愛したマルタ、マリア、ラザロのきょうだいが住む家、イエスにとって心安らぐ場となった温かいベタニアの家が思い浮かんでいたことでしょう。ついで女子患者のための施設も建てました。そればかりではなく、患者の子どもたちを救うために「ナザレの家」を建て、数十人の子どもたちを収容しました。聖家族への思いと祈りを込めて名付けたのでしょう。また神父は、このような人々に奉仕し、世話をする女性たちの集いを設けました。

この頃、活動の広がりとともに、財政的にたいへん苦労したようです。1933年に、宮内省から五千円の下賜金をいただき、窮地を脱したと言われています。当時の五千円は、今で言えばどれほど高い価値があるのでしょうか。以後、皇室は折々に神父を支援しています。

キリストの呼びかけに応え、キリストの心を生きる神父が蒔いた「ベタニアの家」という種は、社会医療福祉法人「慈生会」へと成長し、乳児院、老人ホーム、障害者支援施設などなど、実に多様な医療・福祉活動を行っています。患者の子どもたちのために設けた「ナザレの家」は、学校法人「東星学園」へと発展し、幼・小・中・高の教育を通しての奉仕を行っています。病者への奉仕のために神父が設けた女性の集いは、「ベタニア修道女会」へと発展し、一人ひとりの人を大切にしながら福祉・教育活動に献身しています。小さな種を大きな木へと成長させてくださった神の恵みと御業の偉大さを感じます。

フロジャック師は、1959年に帰天しました。亨年73歳でした。彼の遺言は心に響きます。「わたしは貧しい人々の友であった。わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。思召しがあったら貧しい人々に与えていただきたい」 この世的には、勲四等瑞宝章を贈られ、天皇陛下から祭祀料を賜りました。                         

(つづく)