「歩く宣教師―その3」(7)

 

当時の教会の教えは、キリストの救いの喜びを知らせる福音より、教理と掟、神の裁きが中心だったと思います。私が日曜学校の低学年の時に教えられた神の裁きの恐い話は、心に深く刻まれ、そこから解放されたのは、成人して第2バチカン公会議を迎えた後のことです。小学生で初聖体を受ける準備の時、もっとも強調されたことは、キリストの命のパンをいただいてキリストと一体となる恵みと喜びではなく、夜中の12時以降、水一滴飲んではならない、ご聖体を歯にあててはいけない、ということでした。

 戦時体制に入って、教会はさらなる苦難の時を迎えます。外国人宣教師たちは、思想・言論などを取り締まる特高警察の監視の下にありました。祭壇には、日の丸や「祈武運長久」といった旗が掲げられていました。外来語は敵国語として使用を禁じられます。「アーメン」という大切な信仰告白の言葉も禁じられました。皆さん想像できますか? 「アーメン」ではなく、「(しか)あらしめたまえ」と唱えていたのです。信者を守るためとはいえ、国策に従わざるをえなかった教会の、特に外国人宣教師の苦悩は大きかったに違いありません。

 

話を元に戻しましょう。この若葉町天主公教会の基礎を築いたのは、1873年(明治6年)に来日したテストヴィド神父です。この年は、キリシタン禁制の高札が撤去された年です。外国人と見れば、フランシスコ・ザビエルの時代と同じように、石を投げ、悪口雑言を吐く人が多かった時代に、早速、神父は布教のために、横浜を中心に、外国人に許されている範囲内で各地を歩いて巡回しました。布教の心に燃えていた宣教師たちは皆、そうでした。まさに東奔西走で、昔の信者たちは彼らを「歩く宣教師」と呼んでいました。宣教師たちは、最初は小さなグループにお話や説教をし、教えを学びたい人が出れば、そこを布教所とし、伝道士が教えを担当したようです。テストヴィド神父は、来日翌年の1874年(明治7年)に浅間下に民家を借り、布教所にした、と伝えられています。末吉町教会は、この年を若葉町―末吉町教会の創立年としています。1890年(明治23年)に若葉町に教会が設立されました。

テストヴィド神父に出会い、彼のもとで教理を学び、洗礼を受けた一人に、八王子郊外出身の山上卓樹という青年がいました。人間は神の似姿として創られ、みな自由で平等であるという教えを信奉した彼は、伝道士となり、当時はまだ神奈川県に編入されていた故郷の多摩地方に派遣され、福音の種を蒔きました。神父も献身的に働き、八王子を中心に信者の数が急速に増えていったことが記録されています。八王子は当時、絹の集積地で、絹を横浜港まで運ぶ「絹の道」と呼ばれる道がありました。神父はこの道を何度も草鞋がけで往復したことでしょう。後に山上は自由民権の活動家となり、差別されていた人々のためにも活躍しました。

 テストヴィド神父の布教活動の範囲は、神奈川、埼玉、静岡にも及びました。交通機関のない時代ですよ。神父が静岡県下を歩き、精力的に布教を行っていた1883年(明治16年)のある日、御殿場近くで、家族から疎外され、水車小屋に隠れ住む数人のハンセン病患者の女性に出会います。この病は、当時は不治の病とされ、イエスの時代と同様人々から見離されていました。キリストの道を歩む神父は、心から彼女たちを憐れみ、地元の人々の反対を受けながらも収容施設を作りました。やがて、これが神山復生病院という、日本で最初のハンセン病の病院となりました。当時、何人ものミッション会の宣教師たちが、布教活動とともに、皆から無視され、疎外されて苦しむ弱い人々のために施設を設け、愛の証しを実践していた姿に感動します。            (つづく)