「歩く宣教師―その2」(6)

 

私は、昭和5年(1930年)1月20日に、若葉町教会(現末吉町教会)で、生後間もなく洗礼を受けました。この教会は、キリシタン禁教令撤廃後、宣教師たちが献身的に努力して建てた、最初の日本人のための教会です。横浜天主堂も大浦天主堂も、外国人居留民のためでした。土地の購入など、フランスの庶民の方々からの尊い献金によるところが大であったと思われます。

 

若葉町教会は、当時、横浜でもっとも賑やかな伊勢佐木町通りの裏にある静かな場所でした。この聖堂は、1945年5月29日の横浜大空襲で焼失し、戦後、その地は米軍の飛行場建設のため接収され、現在の末吉町に移転したのです。

2バチカン公会議後、教会は大きく刷新されました。「歩く司祭」からちょっと離れますが、刷新前の様子を分かっていただくために、子どもの目で見た当時の教会をちょっと記しましょう。

 

教会の門には「天主堂」ではなく、「天主公教会」という看板が掲げられていました。カトリックという言葉はあまり使われていない時代です。門を入るとすぐ右側に、伝道士の家族が住む家がありました。当時、言葉の問題があったのでしょうか、多くの教会で宣教師たちは伝道士の協力を得て布教を行っており、伝道士たちは教会の敷地内に住んでいました。

 

私の小学生時代の伝道士は井手口さんという長崎出身の方で、養成を受けてこられた方だと思います。この伝道士の弟さんは井手口三代市師で、横浜教区の2代目教区長となられました。記録によると、毎年20人前後の受洗者がいたので、井手口伝道士は、立派な布教活動をしておられたに違いありません。日本各地で、宣教師に協力した伝道士の献身的な布教活動に関わる話が伝えられています。

 

話は飛びますが、2003年4月の五島巡礼の折、私たちは堂崎天主堂を訪れました。天主堂の近くに「伝道者養成所」として使用されていた農舎が残っています。ガイド役の古巣神父さんは、「ここで『教え方』、つまり伝道士を養成したのです。彼らは働きながら丸3年間、かなり高度な教理の勉強をして派遣されました」と説明されました。キリシタン復活後の宣教師たちはこのように、司祭と共に働く伝道士の養成にとても力を注いでいたのです。司祭が減少していく日本の教会には、このような信徒養成所の設置が必要だ、と強調された古巣神父さんの言葉が強く記憶に残っています。

 

ミサはすべてラテン語でした。もちろん誰もラテン語は分かりませんので、ミサの意味、喜びは会衆に理解されていなかったと思います。強調されていたのは、ミサに与る義務でした。ミサ中、大人たちは皆、「公教会祈祷文」を手に持ち、司祭の動きに合わせて祈りを唱えていました。例えば、司祭が入祭文を読む時、会衆は「司祭祭壇に上りて入祭文を読む時の祈り」を唱え、司祭が信者に背を向けて一人で呟くように福音を読む時、会衆は「司祭左側で福音を奉読する時の祈り」を唱えるのです。祈りの内容や聖書のことばと無関係に。ミサ中にロザリオを唱えている時さえありました。

 

「ミサ答え(今の侍者)」は男の子だけの特権でした。意味も分からないラテン語を暗記して司祭と応答したり、ミサ典書を祭壇の右側から左側に移したりして結構忙しい役割でしたが、誇りでもありました。なにしろ、祭壇の置かれている聖なる内陣と会衆席の間に柵(聖体拝領台)があり、女性は内陣に入ることは許されていなかった時代です。座席も男性と女性は別々でした。   (つづく)