「歩く宣教師―その1」(5)

 

横浜天主堂献堂150周年を契機に、それ以前の250年にわたる潜伏キリシタンの生きざまを簡潔に書いてきました。その動機の一つは、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」というヨハネ・パウロ2世の広島平和アピールの言葉にあります。過去から学び、未来の教会のために何ができるかを、自らに、そして教会共同体に問いたい思いからです。

 

 横浜に目を向けましょう。寒村であった横浜周辺に潜伏キリシタンはいませんでした。1873年にキリシタン(邪宗門)禁制の高札が撤去されてから、パリ外国宣教会(以後、ミッション会)の宣教師たちは、横浜を拠点として布教(昔は宣教という言葉を用いませんでした)を開始しました。カトリック教会の教えを日本人に伝えたいという熱い思いから、彼らは献身的に働きました。外国人を見たこともない人々、まだ攘夷の思想を持つ人々の多かった日本人に福音を伝えるのですから、その困難や難儀は、私たちの想像を越えたものだったでしょう。しかし、困難があったからこそ、実りの喜びを、神への感謝のうちに味わったと思います。なにしろ車も電車もない時代です。因みに、日本で初めて鉄道が敷かれたのは、高札撤去の前年の1872年で、ご承知のように品川と桜木町間でした。しかし運賃は高額で、簡単には利用できませんでした。そこで宣教師たちは、ひたすら歩いて布教しました。私は子どもの頃よく「歩く宣教師」という言葉を聞きました。「あの神父さまは、宇都宮のほうまで歩いて布教された」というように。彼らは、環境、気候、言葉、食べ物、習慣に慣れない日本において、多くの困難や試練にぶつかりました。しかし、神のいのちに生きる宣教師たちは、聖母マリアの保護を願いながら、パウロのように働きました。

 

最初は、外国人に許されている行動範囲内は、横浜の外国人居留地から40キロと限られていましたが、次第に行動範囲は、横浜から東京、埼玉、栃木、静岡、山梨へと広がっていきました。そして、その熱心な活動は実を結び、「りょう原の火のように信者が増えていった」とも言われています。

 

 彼らの布教活動の詳細を書くことはできません。関心のある方はどうか勉強して欲しいと思います。これからしばらく、恐縮ですが、私自身が経験したこと、また、両親から聞いたことをもとに書いてみたいと思います。私は洗礼を受けて83年が経ちました。つまり、この150年のほぼ半分の教会の流れを私自身も見て来たわけですので。また、私たちは、祖父母の時代からミッション会の司祭方の導きを受けてきました。祖父母は、昔、関口教会(現東京カテドラル関口教会)の中にある神学生寮で神学生たちの世話をしていました。家にある古い写真には、2代目横浜教区長 井手口美代市師、3代目教区長 戸田帯刀師、6代目教区長 荒井勝三郎司教が神学生だった頃の姿が写っています。神学生寮の中で育った母は、多くのミッション会の宣教師に出会い、可愛がっていただいたようです。その母から宣教師の活動についていろいろ聞きました。父も同じく、詳しいことは分からないのですが、教会内にあった玫瑰塾(まいかい塾)で、宣教師たちの恩恵を受けて育ちました。

 

 こんなエピソードがあります。1951年のある日のことです。横浜教区長になられたばかりの荒井勝三郎司教がある時、末吉町教会に来られました。司教さまと話している時、私は、「私の母は吉田こうです」と申し上げると、司教さまは本当に懐かしそうに「ああ、おこうちゃん。会いたいなあ」と言われ、そのまま私の家に来られました。懐かしい再会でした。