「天主(神)は、われらのまことの 御親(おんおや)でござる」(4

 

250年ぶりに司祭に出会い、その導きのもとに秘跡を受け、ミサにあずかり、教理を学んだキリシタンたちは、聖霊に息吹かれて信仰を新たにされ、強められました。厳しい禁教令の中にあって、共に集い、語り合い、祈ることによって信仰の火は広がっていき、迫害を恐れない心が育っていきました。

 

1867年4月、それは「キリシタンの復活」からわずか2年後のことです。一人のキリシタンの農民が亡くなった時、身内の者は幕府の掟を無視し、仏教的葬儀を拒否し、自分たちだけでキリスト教の祈りをもって死者を埋葬する、いわゆる自葬事件が起こりました。小さな出来事のように思えますが、幕府にとっては一大事件で、これを契機に「浦上四番崩れ」と呼ばれる、浦上では4回目の激しい弾圧が始まりました。「崩れ」は「弾圧・迫害」を意味します。夜中に司祭が密かに秘跡を授け、ミサを捧げていた秘密教会の所在が漏れて役人に襲われ、多くのキリシタンが捕われ、牢屋に入れられ、拷問(ごうもん)を受けました。潜伏キリシタンの主な指導者の一人に、自宅を秘密教会に提供していた高木仙右衛門という人がいました。後に彼の次男は、キリシタン復活後最初の司祭に叙階されましたが、仙右衛門も捕えられ、牢に入れられ、役人から厳しい尋問を受け、改宗を迫られました。しかし、彼は屈することなく堂々と、天地万物と人間を創造された神を信じていること、そして「天主は、われらのまことの御親でござる」と信仰告白しました。信仰を守り抜いた彼は、獄中の体験を「覚書(おぼえがき)」に書き残しています。

 

1868年10月に幕府は倒れ、明治時代となりましたが、国家神道を国是とする政府は、キリシタン禁制を継続しました。捕えられたキリシタンたちは裁判の結果、流罪(るざい)となりましたが、その数は、浦上だけでおよそ3,400人と記録されています。彼らは、20の藩に流され、そこで、1873年(明治6年)キリシタン禁制の高札が欧米の圧力によって撤去(てっきょ)されるまでの数年、苦難の日々を送ることになります。仙右衛門は、他の村人に先立って津和野に流されていました。津和野での弾圧物語は有名ですが、今は省略します。

 

浦上と同じ頃、五島においても、言語を絶する残酷な迫害が始まりました。2003年4月に磯子教会有志で五島の巡礼を行いましたので、五島での「崩れ」の一部を書き、当時を偲びたいと思います。私たちは、久賀島の「牢屋の(さく)」記念聖堂を訪れました。「窄」は、文字的には「狭い」の意味ですが、当地では、狭い納屋に、麦束とか、稲束をぎゅうぎゅう詰めにする状態を表します。記念聖堂の立つこの地に民家があり、その座敷を牢屋としました。12畳敷きの部屋を男女用に二つに分け、そこになんと、乳児から85歳までの188人のキリシタンたちが閉じ込められたのです。記念聖堂の中に、白いじゅうたんが敷かれています。それが12畳の広さです。私たち30人が座ると空いた場所がありません。彼らは、座ることができず、立ったままでした。食事は朝夕に少量のサツマイモ。トイレはなく、立ったままで用をすませなければならず、病気や餓えで人が死んでも片付けずにそのまま放置。想像を絶した不潔さと臭気。この状態で、この牢屋敷に8ヶ月間閉じ込められ、幼児を含め42人が殉教しました。

 

久賀島だけではなく、五島の各地でキリシタンが逮捕、監禁され、拷問を受けましたが、多くの信徒は信仰を守り、命をもって信仰を証ししました。五島はまさに殉教者の血によって清められた地であり、多くのキリスト者は今も、祖先が大切にした信仰を守り続けています。私たちを案内してくださった長崎教区の古巣馨神父も、潜伏キリシタンの子孫でした。潜伏キリシタンたちの固い信仰の源泉は何だったのでしょうか?